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SANO
MaSaKO

神奈川県在住

3級音楽療法士

​リミナル・ハープ主宰

リミナル・ハープ

​緩和ケア病棟/NICU

『命に寄り添う音楽』

1.はじめに

本論では、私が2014年から携わっている『命に寄り添う音楽』についてまとめました。使用している楽器は34弦のアイリッシュハープです。対象となる方は、終末期患者、終末期高齢者及び低出生体重児とその母親が中心となっています。これまでに延べ2000人超の方々とのセッションを経験してきました。

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2.活動概要

 私の定期的な活動場所は、東京都23区にある総合病院の緩和ケア病棟と新生児特定集中治療室(NICU)及び東京都都下の特別養護老人ホームです。

 医療現場における音楽療法では一般的に医師の指示の元で治療を目的とした介入を意図して行われますが、私が行っている音楽活動は直接的な治療ではなく、医師の了解の元で患者の心のケアを意図するものとなっています。

 具体的には患者のベッドサイドに行き、一対一でハープを15分から30分ほどかけて演奏しますが、その時に患者の呼吸のペースをよく観察して、その方の呼吸に音楽を合わせていくという手法をとります。音楽を届けるその時間を共にすることで、患者の存在そのものを尊重することを最も大切にしています。

 その結果、例えば多くの患者が安心して深い眠りに入ったり、張りつめていた気持ちが緩んで涙を流したり、家族への想いを口にするきっかけになったりといったことを見てきました。

 医療現場では、こうした心のケアをスピリチュアルケアと呼ぶことはほぼ定着化してきました。一般社会ではスピリチュアルというといわゆる霊感や占いなどを想起しますが、ここでいうスピリチュアルは人間の生きる力の根源であると私は理解しています。その根源のケアを音楽を通して試みているというのが私の音楽活動の概要です。便宜的にリミナル・ハープという名称を付けて活動していますが、「リミナル」という用語の意味は、後述の死生観についての項で触れたいと思います。

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3.命に寄り添う―中世ヨーロッパの作法

 少し時代を遡ってケアに関する歴史を紐解いてみます。

 現代の病院のルーツは、11世紀フランスのベネディクト会修道院だと言われています。修道院内に設置された診療室では“肉体のケア”と“魂のキュア”を両輪として、患者の診療が行われていたそうです。病院で“魂”が診療対象だったことは、現代の私たちにとっては驚きです。

 “肉体のケア”は手術や薬による治療と看護のことです。もう一方の“魂のキュア”は、病に苦しむ人と共に居て、思いやることによって為されていたのだそうです。高齢の修道士に死が迫っていることがわかると、その人を決して独りにしておかず、皆で囲んで讃美歌を歌ったという記録が残されています。

 歌は息を引き取った後もその人が天国に導かれるまでしばらく続けられたそうです。仏教にも似たような習慣があり、臨終を迎える人が不安にならないよう、死を看取りながら枕元で御経を唱える“本来”の枕経です。(現在では、枕経は死者に対して最初にあげる御経になっていますが。)

 ひるがえって、現代では生きる力の根源のケアについての術(すべ)をほぼ失っています。昔はヨーロッパにも日本にもあったものが、いつの時代からかすっかり忘れ去られてしまっているのが現状です。

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4.スピリチュアル・ペインのケア

 WHO世界保健機構は、緩和ケアとは4つの痛みに対処するものと定義しています。  

 すなわち、身体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、そしてスピリチュアルな痛みです。

  緩和ケアは、生命を脅かす疾患による問題に直面している患者およびその家族のQOL(生活の質)を改善するアプローチです。繰り返しになりますが、スピリチュアルな痛みとは、生きる意味、人生の根幹に関わるような苦しみや困難です。

 例えば、「自分はいったい何のために生きているのか」、「こんなことになって、いっそ死んでしまいたい」、「誰からも愛されているという実感がない」といったことなど、簡単には答も解決策も見つけることができない問題です。実際に、患者や家族からこのような質問を投げかけられた時、それが相手からのSOSだとわかっていても、話をはぐらかしたり、諭してしまったりしがちです。

 例えば、余命宣告を受けた患者から「もう生きていたってしかたがない」という言葉を投げかけられた時、「そんなこと言わないで…」と論点をずらしてしまう可能性は誰しも高いかもしれません。スピリチュアル・ペインへの対応は決して簡単ではありません。

 日本で初めてホスピスケア導入をした淀川キリスト教病院のターミナルケア・マニュアルではスピリチュアル・ペインのケアについて、次のように述べています。

『スピリチュアルな苦痛を感じている状態に対しては、万人に通用するようなただひとつの援助方法というものは存在しない。スピリチュアルな苦痛を癒すには、人間対人間の人格的な交わり、心の交わり、あるいは信仰心といったものが必要である。スピリチュアルな痛みは、単純に宗教家だけいれば癒されるというわけではなく、むしろ患者に関わる全ての人との関係によってはじめて癒されるものなのである。』

 関係性によって癒しが実現するという考え方です。逆に言えば、関係性が結べなければ心の苦痛を癒すのは難しいということにもなります。

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5.命の循環―死と生と

 ところでここで一度、命には終わりがあると同時に、もちろん始まりもあるということに視点を移してみます。私はいつも病院の緩和ケア病棟で末期がんの患者さんたちと対面し、その後、NICUの生まれたばかりの赤ちゃんたちの所へ向かいます。

 こうして、命の終わりと始まりの現場に身を置かせていただいているうちに、だんだんとある不思議な感覚を抱くようになっていきました。言葉で表現するのが非常に難しいのですが、誤解を恐れずに言うと「命の誕生と終焉はどちらも、哀しいと同時に喜ばしい」という感覚です。

 ―誕生は嬉しい、でも同時に少し切なさも入り混じっている。この世からの旅立ちは悲しい、でも同時に少し晴々しさを感じることもある。― 

 当初、私はこの感覚の正体が分からず、不謹慎だと誤解されることを恐れてあまり人に話したりもしませんでした。しかし、あることをきっかけに、この矛盾した感覚の謎を解く鍵を見つけました。

 それは、子守唄です。

 私のレパートリーにはもともと子守唄があり、緩和ケア病棟でもNICUでもよく使っていました。一般的に子守唄は小さな子供のための歌ですが、ある時、子守唄と葬送曲(死者を送るための音楽)に同じ旋律を用いている地域があるという論文を見つけました(鵜野祐介/梅花女子大学)。

 さらに、S.スピルバーグ監督もある映画の中で同じような演出をしていることを発見しました。『太陽の帝国』という映画です。この映画ではケルトの子守唄である『SUO GAN』 という曲が物語のキーとして使われていて、オープニングシーンからこの子守唄で始まります。

 ケルト語の歌詞がついていて、内容は【眠れ我が子よ 母の腕の中で 誰にも貴方を傷つけたりさせないから】といった母親から赤ちゃんへの愛が歌われています。

 ところが、実はこの冒頭シーンはゆっくりと航行する船から棺桶が海へと流される場面です。船で亡くなった死者の弔いのシーンなのです。この場面では、まさに子守唄で死者をあの世へと送り出していて、その世界感は私が病院で感じていた感覚によく似ていました。

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6.リミナリティ(境界領域)という概念

 子守唄と葬送曲というテーマを更に探求していくうちに、文化人類学上のリミナリティという概念に辿り着きました。リミナリティとは、人生における過渡期を表す“境界領域”を意味しています。

 たとえば、母親の胎内からこの世に生れ出る時、少年から青年になる時、またこの世からあの世へと旅立つ時などです。自然界で例えれば、淡水と海水が混じりあう汽水域がそれに当たります。あちらの世界とこちらの世界のちょうど境界あたりにいる者―これは、新生児と死に逝く人の共通点です。

 例えば、引越や転校、入学などでも経験するように、ここでも、そちらでもない、そのちょうど境界にいる時、人はとても不安で孤独を感じます。そのことをよく知っていた昔の人々は、伝統的に通過儀礼というものを設け、こちらの局面からあちらの局面への移行がスムーズに行われるようにと本人を取り囲む家族や村全体で支えてきました。

 そこでは音楽が重要な役割を担っていました。儀式でも祭りでも音楽は欠かせないものですし、葬儀で葬送曲を演奏するといった習慣も同様です。

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7.人はどこから来てどこへ帰るのか(死生観)

 ご存知の方も多いと思いますが、沖縄の墓は胎内回帰の信仰から巨大な子宮の形をしています。人は母親の胎内からこの世に生まれ出て、死んでまた胎内に戻っていく。

 そう考えたら赤ん坊のための子守唄と死者を送る歌が同じ旋律であることには説得力があります。生まれ来る時と死に逝く時、子守唄が通奏低音となって、本人と歩調を合わせて包むように鳴っているイメージが私の音楽の目指しているところです。

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8.Not Doing but Being

 近代ホスピスの基礎を築いたイギリスのシシリー・ソンダース医師はホスピスの根本的理念として「Not Doing but Being」ということを掲げました。Doing(行為)すなわち何かを行うのではなく、Being(存在)つまり寄り添うことが重要なのだという意味です。

 しかし、寄り添うとは具体的にどうすればよいのでしょうか。寄り添うという日本語は耳ざわりはいいですが、中身は曖昧です。私の手段は音楽ですが、音楽が好きではない方も当然いらっしゃいますし、「こんな大変な時に音楽なんて聞いている場合じゃない」と強く拒絶された経験も何度もあります。音楽も決して万能というわけではないのです。

 それでも尚、寄り添うための具体的な方法として、日頃からいくつかの小道具を心のポケットの中に用意しておくことが助けになると考えています。

 例えば、肯定する言葉「そうですね」「大丈夫です」や感謝の言葉「ありがとう」という具体的な表現。それから、スキンシップ、優しく触れるということ。

 簡単だけれどなかなかできない沈黙。せめて10秒間、20秒間黙って隣に座るということ。そういった具体的な小道具がポケットに入っていると思うだけで、だれかのそばにいて一緒に時を過ごすことに今より積極的になれるかもしれないと思っています。

 そして音楽という観点からは、マイソングも有効です。

 例えば、短くて簡単に口ずさめる曲がいいと思います。歌詞は覚えなくてもハミングでも十分です。

 聴覚は最後まで残る感覚だと言われています。もう意識がないように見えたとしても周囲の声や音は聞こえていらっしゃる場合が多いのです。

 大切な患者や利用者がこの世から旅立つ時に、お母さんの子守唄のように耳元で歌が聞こえていたなら、そしてそこに親しい方も一緒に参加して下さったら尚更のこと、それはとてもパーソナルな穏やかな時間になります。

 音楽の持つ限りない可能性と、誰もが命に寄り添う音楽家であり得ることを、強く信じています。

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